2005年 04月 15日
ことばについて |
今朝、夢のなかでゲラを直していた。私が見る夢の大半は支離滅裂で、人間関係や地理などが現実のそれとはかなりズレていることが多いのだが、今朝の夢には、現実に私が書いた文章がまんま出てきた。
クシャミをしながら起きて考えた。「てにをは」に関する部分で、夕べは手を入れなかったが、「は」と「が」のどっちにすべきか迷ったとしても不思議ではないところだった。
「が」にすると、すっと流れる。「は」にすると、むくむくっとイメージが立ち上がってくる感じが強調される。サブタイトルに関わってくる部分でもあるので、何度か音読して吟味した結果、ママの「は」のほうがベターという結論に達してほっとした。
「ことば」(と言うより「言語」と言うべきかもしれない)というものには正誤を簡単には断ずることのできない領域があり、その範囲内では、書き手や話し手の美醜の感覚を物差しとするよりほかない。困ったことに、その領域というのが結構広く、誰でもすぐに入り込んでしまう。
例えば、「彷彿」についてだが、私は、自動詞として使うときは「彷彿とする」で、他動詞として使うときは「彷彿させる」とするほうが美しいように感じてしまう。
何について書くか、話すかによって、言語の正誤のゆらぎ方が変わってくる。
例えば、競馬の文章を書くときは、いろいろなケースがあるにせよ、短ければ1分ほど、長くても3分程度のレースシーンの描写に言葉を尽くそうと頭を使ったりする。対象の動きは基本的にはきわめて単純で、周回コースや直線コースなどの徒競走である。そのスパートのコンマ数秒のちがいや、前方の進路の数十センチの広さの差などが大きな問題になってくるわけだから、それを「拡大」して見やすくする作業が求められる。このまま行くと長くなりそうなので、やや乱暴だが単純化して言うと、「拡大鏡=書き手」のレンズの形状によっても、また、どこを、どれだけ拡大するかによっても、でき上がる文章はさまざまなものになりうる。
その一方で、同じものを見ている多くの人々のレンズの形状が似通うことが――それも国家や民族の枠を越えて――ままあり、それを通じて書かれたものが、その対象を見ていない(あるいは興味がない、価値を見いだしていない)人たちの目には、ただの誤りにしか映らないこともある。
競馬でのひとつの例は「かわす」だろうか。レースの描写で、追い越すことを「かわす」と書くことがあるが、「交わす」は同じ方向に進むのではなく交錯するときに、「躱す」はよけるときに使うのが「一般的」だ。が、私のように競馬が好きな人間にとって、「かわす」の語感には、他に代えられないスピード感や躍動感が内包されている。以前、一度校正さんに指摘されたのを機に、私はレースシーンでは「かわす」とひらいて(ひらがなにして)使うようになった。
話のポイントがちょっとズレるが、馬と馬との間が「あく」のが「開く」か「空く」かは、状況によって微妙に変わってくるので、これも私はひらくようにしている。
話がさらにそれるが、どこをどんなふうにひらくかによって、その書き手がどの出版社で仕事を覚えたか、あるいは付き合いが長いかがだいたいわかる。「ころ」「もつ」「ひと」などをひらくのはK社系、「とき」「なに」「ひとつ」などをひらくのはS社系、といったふうに。
競馬には特殊用語が生まれやすい性質があるようで、それについて――例えば英語との共通点など――は、また今度じっくり考えて、何かの機会に連載エッセイにでも書いてみたいと思う。
きのう、川上健一さんのエッセイ集『ビトウィン』を読んだ。笑うところもジンと来るところもあって、とてもよかった。
きょう、久しぶりにベランダを水洗いした。ヤシの実洗剤をタワシに塗りたくってテラコッタタイルをゴシゴシこすってホースで水をジャバジャバかけ、その後、クレマチスのトリガタハンショウヅル(通称トリちゃん)などの写真を撮った。西日が当たったトリちゃんは素晴らしいレモン色に見え、形の可愛らしさがより強調されて、よかった。
花見の写真もサイトの「ガーデニング」のページにアップしなくては。
……と、こんなことばかり書くと、こいつは普段遊んでばかりいるのではないかと思われるので、このくらいにしておく。でも、本当に昼間っからぶらぶらしているので、このマンションの住人にはプーだと思われているかもしれない。
日曜日は皐月賞だ。今年は例年にないほど、強い馬の多くが無事に来ている。
ディープインパクトがどんな競馬をするか、楽しみだ。
クシャミをしながら起きて考えた。「てにをは」に関する部分で、夕べは手を入れなかったが、「は」と「が」のどっちにすべきか迷ったとしても不思議ではないところだった。
「が」にすると、すっと流れる。「は」にすると、むくむくっとイメージが立ち上がってくる感じが強調される。サブタイトルに関わってくる部分でもあるので、何度か音読して吟味した結果、ママの「は」のほうがベターという結論に達してほっとした。
「ことば」(と言うより「言語」と言うべきかもしれない)というものには正誤を簡単には断ずることのできない領域があり、その範囲内では、書き手や話し手の美醜の感覚を物差しとするよりほかない。困ったことに、その領域というのが結構広く、誰でもすぐに入り込んでしまう。
例えば、「彷彿」についてだが、私は、自動詞として使うときは「彷彿とする」で、他動詞として使うときは「彷彿させる」とするほうが美しいように感じてしまう。
何について書くか、話すかによって、言語の正誤のゆらぎ方が変わってくる。
例えば、競馬の文章を書くときは、いろいろなケースがあるにせよ、短ければ1分ほど、長くても3分程度のレースシーンの描写に言葉を尽くそうと頭を使ったりする。対象の動きは基本的にはきわめて単純で、周回コースや直線コースなどの徒競走である。そのスパートのコンマ数秒のちがいや、前方の進路の数十センチの広さの差などが大きな問題になってくるわけだから、それを「拡大」して見やすくする作業が求められる。このまま行くと長くなりそうなので、やや乱暴だが単純化して言うと、「拡大鏡=書き手」のレンズの形状によっても、また、どこを、どれだけ拡大するかによっても、でき上がる文章はさまざまなものになりうる。
その一方で、同じものを見ている多くの人々のレンズの形状が似通うことが――それも国家や民族の枠を越えて――ままあり、それを通じて書かれたものが、その対象を見ていない(あるいは興味がない、価値を見いだしていない)人たちの目には、ただの誤りにしか映らないこともある。
競馬でのひとつの例は「かわす」だろうか。レースの描写で、追い越すことを「かわす」と書くことがあるが、「交わす」は同じ方向に進むのではなく交錯するときに、「躱す」はよけるときに使うのが「一般的」だ。が、私のように競馬が好きな人間にとって、「かわす」の語感には、他に代えられないスピード感や躍動感が内包されている。以前、一度校正さんに指摘されたのを機に、私はレースシーンでは「かわす」とひらいて(ひらがなにして)使うようになった。
話のポイントがちょっとズレるが、馬と馬との間が「あく」のが「開く」か「空く」かは、状況によって微妙に変わってくるので、これも私はひらくようにしている。
話がさらにそれるが、どこをどんなふうにひらくかによって、その書き手がどの出版社で仕事を覚えたか、あるいは付き合いが長いかがだいたいわかる。「ころ」「もつ」「ひと」などをひらくのはK社系、「とき」「なに」「ひとつ」などをひらくのはS社系、といったふうに。
競馬には特殊用語が生まれやすい性質があるようで、それについて――例えば英語との共通点など――は、また今度じっくり考えて、何かの機会に連載エッセイにでも書いてみたいと思う。
きのう、川上健一さんのエッセイ集『ビトウィン』を読んだ。笑うところもジンと来るところもあって、とてもよかった。
きょう、久しぶりにベランダを水洗いした。ヤシの実洗剤をタワシに塗りたくってテラコッタタイルをゴシゴシこすってホースで水をジャバジャバかけ、その後、クレマチスのトリガタハンショウヅル(通称トリちゃん)などの写真を撮った。西日が当たったトリちゃんは素晴らしいレモン色に見え、形の可愛らしさがより強調されて、よかった。
花見の写真もサイトの「ガーデニング」のページにアップしなくては。
……と、こんなことばかり書くと、こいつは普段遊んでばかりいるのではないかと思われるので、このくらいにしておく。でも、本当に昼間っからぶらぶらしているので、このマンションの住人にはプーだと思われているかもしれない。
日曜日は皐月賞だ。今年は例年にないほど、強い馬の多くが無事に来ている。
ディープインパクトがどんな競馬をするか、楽しみだ。
by akihiro_shimada
| 2005-04-15 18:42
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