2014年 11月 29日
虹の断片(かけら) |
ほぼ11カ月ぶりにこのブログを更新する。
11月28日、産経新聞出版より競馬歴史小説『虹の断片(かけら)』を上梓した。
時代は明治から昭和にかけて。
日本初の女性騎手・斉藤すみ、初代ダービージョッキー・函館孫作、最年少ダービージョッキー・前田長吉といった実在した騎手たちを視点人物とし、近代競馬の黎明期を支えた彼らの姿を描いた。
歴史といっても、日本の近代競馬のそれは、横浜で居留外国人が始めてから150年と少ししか経っていない。
では、世界の競馬史はどうかというと、かつて、「人と馬の300年ロマン」というコピーがあった。それを聞いてから20年以上経っているような気がするので、今は「320~30年ロマン」なのだろうか。
さほど昔のことではないので「時代小説」としたかったのだが、そうすると、登場するのは架空の人物でなくてはならない。
実在した人物について徹底的に調べ、事実と事実とをつなぎ、因果関係を推測しながら取材をつづけ、それでもなおわからないところを創造(想像)して書いた物語なので、やはり「歴史小説」ということになる。
それに、「競馬史」という言葉が普通に使われているので、「競馬歴史小説」でも案外違和感なく受けとめられるのではと思い、こうした。
春に『誰も書かなかった武豊 決断』を出したので、今年2冊目の自著となる。
年に2冊以上出すのはいつ以来だろう。
小説を、読書情報誌や雑誌に発表したことはあるが、単行本として出すのは今回が初めてである。その意味では「処女作」と言えるのか。
448ページという分厚さも、1700円+税という値段の高さも自著としては初めてのものだ。
上製(ハードカバー)は、『ありがとう、ディープインパクト』以来7年ぶりになる。
プロの物書きにとって、どんなレベルの書き手にも言えるのは、「たくさんの人に読んでもらってナンボ」ということである。
どんな立派なことを書いても、誰にも読んでもらえなければ、書いていないのと一緒だ。そのうち食えなくなり、プロではなくなる。
私は、黙っていても売れる作家ではないので、読者の手に届ける努力から始めなければならない。
まず、出ていることを知ってもらい、さらに作品の概略にもふれて興味を持ってもらい、手にとってもらったら喜び、素通りされたらため息をつき……ということを繰り返すしかない。
物書きとして四半世紀以上やってきて、自分のなかに何かができているとしたら、それをすべてぶつけるつもりで書いた。
自分にしか書けないもの、自分が書かなくてはならないものができた、という自負がある。
だからこそ、評価が怖い。いや、それ以前に、評価してもらえるところまで行けるかどうか、ビビりまくっている。
書店に行き、バブル期から(もっと前からかな)つづいている出版洪水による広大な「本の海」のなかにいると、読者が私の著作を手にとってくれるのはある種の奇跡にほかならないと、つくづく思う。
確か、横山秀夫さんもそうしたことを言われていた。
奇跡という言葉をあまり簡単に使うべきではないのかもしれないが、実感として染みついてしまっているのだからどうにもならない。サラダとドリンクを付けられる食事代以上のお金を出し、自分の本を買ってくれる人が身内以外にいるなんて(いや、身内も買ってくれているかどうかわからないのだが)、ちょっと信じられない感じがするのだ。これは、一冊でも本を出したことのある人は共通して持つ感覚だと思う。
今は、ツイッターやフェイスブックなど便利なものがある。今回、何人かの方が「買ったよ!」と写真付きで知らせてくれた。あまり洒落た表現ではないが、私にとっては「税込1836円の奇跡」が現実になった瞬間である。その目撃者兼当事者になれるのは、本当に嬉しい。
物語を記す人間が、こうした俗っぽいことを言うのはよくないのかもしれないが、私はこういう人間である。
「通俗のなかにこそ人間の本当の姿がある」と言ったのは、故・久世光彦さんだったろうか。
これからもツイッターなどで大宣伝大会をつづけると思うので、フォローしてくれている方々、もうちょっとお付き合いください。
では、ジャパンカップの馬券、頑張りましょう。
おやすみなさい。
11月28日、産経新聞出版より競馬歴史小説『虹の断片(かけら)』を上梓した。
時代は明治から昭和にかけて。
日本初の女性騎手・斉藤すみ、初代ダービージョッキー・函館孫作、最年少ダービージョッキー・前田長吉といった実在した騎手たちを視点人物とし、近代競馬の黎明期を支えた彼らの姿を描いた。
歴史といっても、日本の近代競馬のそれは、横浜で居留外国人が始めてから150年と少ししか経っていない。
では、世界の競馬史はどうかというと、かつて、「人と馬の300年ロマン」というコピーがあった。それを聞いてから20年以上経っているような気がするので、今は「320~30年ロマン」なのだろうか。
さほど昔のことではないので「時代小説」としたかったのだが、そうすると、登場するのは架空の人物でなくてはならない。
実在した人物について徹底的に調べ、事実と事実とをつなぎ、因果関係を推測しながら取材をつづけ、それでもなおわからないところを創造(想像)して書いた物語なので、やはり「歴史小説」ということになる。
それに、「競馬史」という言葉が普通に使われているので、「競馬歴史小説」でも案外違和感なく受けとめられるのではと思い、こうした。
春に『誰も書かなかった武豊 決断』を出したので、今年2冊目の自著となる。
年に2冊以上出すのはいつ以来だろう。
小説を、読書情報誌や雑誌に発表したことはあるが、単行本として出すのは今回が初めてである。その意味では「処女作」と言えるのか。
448ページという分厚さも、1700円+税という値段の高さも自著としては初めてのものだ。
上製(ハードカバー)は、『ありがとう、ディープインパクト』以来7年ぶりになる。
プロの物書きにとって、どんなレベルの書き手にも言えるのは、「たくさんの人に読んでもらってナンボ」ということである。
どんな立派なことを書いても、誰にも読んでもらえなければ、書いていないのと一緒だ。そのうち食えなくなり、プロではなくなる。
私は、黙っていても売れる作家ではないので、読者の手に届ける努力から始めなければならない。
まず、出ていることを知ってもらい、さらに作品の概略にもふれて興味を持ってもらい、手にとってもらったら喜び、素通りされたらため息をつき……ということを繰り返すしかない。
物書きとして四半世紀以上やってきて、自分のなかに何かができているとしたら、それをすべてぶつけるつもりで書いた。
自分にしか書けないもの、自分が書かなくてはならないものができた、という自負がある。
だからこそ、評価が怖い。いや、それ以前に、評価してもらえるところまで行けるかどうか、ビビりまくっている。
書店に行き、バブル期から(もっと前からかな)つづいている出版洪水による広大な「本の海」のなかにいると、読者が私の著作を手にとってくれるのはある種の奇跡にほかならないと、つくづく思う。
確か、横山秀夫さんもそうしたことを言われていた。
奇跡という言葉をあまり簡単に使うべきではないのかもしれないが、実感として染みついてしまっているのだからどうにもならない。サラダとドリンクを付けられる食事代以上のお金を出し、自分の本を買ってくれる人が身内以外にいるなんて(いや、身内も買ってくれているかどうかわからないのだが)、ちょっと信じられない感じがするのだ。これは、一冊でも本を出したことのある人は共通して持つ感覚だと思う。
今は、ツイッターやフェイスブックなど便利なものがある。今回、何人かの方が「買ったよ!」と写真付きで知らせてくれた。あまり洒落た表現ではないが、私にとっては「税込1836円の奇跡」が現実になった瞬間である。その目撃者兼当事者になれるのは、本当に嬉しい。
物語を記す人間が、こうした俗っぽいことを言うのはよくないのかもしれないが、私はこういう人間である。
「通俗のなかにこそ人間の本当の姿がある」と言ったのは、故・久世光彦さんだったろうか。
これからもツイッターなどで大宣伝大会をつづけると思うので、フォローしてくれている方々、もうちょっとお付き合いください。
では、ジャパンカップの馬券、頑張りましょう。
おやすみなさい。
by akihiro_shimada
| 2014-11-29 23:59
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